「しらせ」の想い出/2008年3月15日(第49次しらせ南極新聞・投稿記事)

 島国・日本に生まれ育ちながら、外洋を航海する船に乗ったのは、後にも先にも「しらせ」だけである。尚且つ、6回の南極行のなかで、処女航海と最後の航海に乗り合わせることになったのは、縁(えにし)と言うほかない。老後に、妻と豪華客船での船旅を楽しむ予定も余裕もないので、おそらくはこの49次行動が私にとって最後の船旅になるだろう(か?)。

 

 さすがに6回も乗っていると、様々なことに出くわす。25次隊(復路)では、急病人の発生によるケープタウンへの緊急入港,27次隊(往路)では、豪・ネラダン号の救出活動,40次隊(往路)では、豪・オーロラオーストラリス号の救出活動を経験した。

 

 私にとって一番長い航海は、「しらせ」の処女航海でもある第25次行動である。今回と同じく、夏隊/設営一般での参加だった。当時、夏隊は往きも帰りも船で、越冬隊のみが途中のモーリシャスで下船し、パリ経由で空路帰国していた。往路の寄港地は今と変わらずフリーマントルで、復路はケープタウン(緊急入港)・モーリシャス・シンガポールに寄港して、東京へは4月の半ばに戻った。5ヶ月間の南極出張の内、3ヶ月を「しらせ」で過ごしたことになる。


 モーリシャスで24次越冬隊が下船した後、25次夏隊は東京まで舷側の寝室を一人一部屋で使っていた。一人部屋は快適なのだが、なんだか寂しくもあり、いつもどこかの部屋にかたまって飲んでいたように思う。何せ、もう25年も昔のことで記憶も断片的で曖昧模糊としている。昨日食べた物だって正確には覚えていないのだから、無理はない。船の動揺も激しくなってきたことだし、いくつか印象に残っていることを書いて、この稿はお茶を濁してしまおう。

 

■出航時のことなど■

 晴海埠頭を出航した「しらせ」に、「ふじ」を先頭に数隻の自衛艦が縦一列になって向かってくる。

「登舷礼式」である。

『右、帽ふれ。』の号令がかかる。甲板に整列した乗組員や関係者の表情が見て取れるほどのところを通り過ぎてゆく。

 この日の昼食は、『祝 出航』と書かれた二段重ねの折り詰め弁当(赤飯)だった。缶ビールかカップ酒が1本付いていたように記憶しているが、定かではない。

各観測隊寝室には花束があふれ、いい匂いがした。それらは大抵、壁に逆さに吊るされていて、いくつかは帰国する頃に見事なドライフラワーとなった。

 出航初日こそ、免税品の配布や艦内生活の説明会(ベッドで使う毛布のたたみ方まで教わった。)などで慌しかったが、その後のフリーマントルまでの2週間は、国内での準備作業の疲れを癒す良い休養期間となった。艦内では、各種訓練の他に手旗信号やワイヤーの編込みなども教えていただいたと思うが、手旗信号の「イ」を覚えているくらいで他は何も身についていないのは、我ながら情けない。

 

■赤道祭■

 往路の赤道祭は、盛大で楽しいものだった。赤道通過儀式の他に演芸大会があり、観測隊・士官室・CPO・各分隊が、踊りの部と劇の部に一つずつエントリーしなければならなかったので、小道具や大道具作り、そして何より練習が大変だった。踊りは「長崎の蛇踊り」、劇は「おしんデレラ」(当時流行ったTVドラマ「おしん」に引っ掛けた寸劇)だったと思う。国内では十分な準備が出来なかったのだが、隊員それぞれが隠れた才能を発揮し、両部門での優勝を勝ち取った。 

復路も同様に通過儀式があったと思うのだが、良く覚えていない。演芸会はなくて、カラオケ大会が催されたと記憶している。「夕焼け雲」(千昌夫)の替え歌で『♪白い大地に魅せられて~♪』というのが結構好評だった。あの替え歌は誰が作ったのだろう?

 

■エルシーネしらせ■

 巡検終了後の楽しみの一つに、映画上映(16mm)があった。館名を「エルシーネしらせ」といい、けっこう古い映画が上映された。毎夜の開館だったかどうかは定かではない。いつも満員御礼で、早く行かないと立ち見になった。ソフトクリームを食べつつ、科員食堂の揺れるスクリーンで観た吉永小百合さんはとても美しく、これを機に私は世代違いの「サユリスト」となった。